大震災から1年
様々なメディアの報道や記事に目頭が熱くなる
思い出したくもない現実もあるが、決して忘れてはならないということを改めて心に刻む
未曾有の大震災の起こったこの時に、議員であることの責任と使命を果たさなければと思う
1年前を思い出してみた
議会の最終日、区役所3階にいた
大きな揺れに恐怖を覚えながら「関東大震災が来たか」と思った
しばらくしてTVの報道で東北地方が震源地である事を知った
その後、徐々に被害の状況が明らかになり始め、空からのライブ映像で津波が街を呑込む様子が映し出されると、控え室の皆が声を失った
妻の実家に電話を入れたが繋がらない、ひょっとしたらやられたかもしれないと思った
家族全員にメールを送り、議会が閉会すると同時に街へ飛び出した
東京は被害が少なかったとはいえ、あちこちで屋根瓦が落ちたり、塀が崩れたりしていた
まず一人暮らしの高齢者の方の様子を見に回った
幸いにも皆無事であった
自分のエリアの震災救援所となっている小中学校を回った、自宅にいるのが不安だと言う方が何人か避難していた
夜になると、多くの帰宅困難者が青梅街道の歩道を埋め尽くしていた
情報収集のため、区役所6階の防災センターに設置された災害対策本部に詰め、Twitterで杉並区の震災情報を発信し続けた
現代の通信インフラの脆弱さを思い知らされた
深夜になって、帰宅困難者の受け入れを行うことになった学校の手伝いに向かった
区の職員が必死になって受け入れをおこなっていた
自宅に帰れず、休む事もままならない状態で働く姿に頭が下がる思いだった
地元の中学校の生徒が、卒業遠足先のディズニーランドから、バスをなんとかチャーターして帰ってくる事がわかった
かわいがっていた陸上部員もいる
明け方近くにバスが到着し、保護者や先生とともに疲労しきった顔の生徒たちを迎えた時はホッとした
それから、3日間は防災服で区内を走り回った
その間も福島の家族とは連絡が取れなかった
しかも、実家から5キロほどに位置する福島第1原発が次々と水素爆発を起こし、街の様子が全く入ってこない状況だった
3日目に、家はやられたが全員無事との1本のメールが届いた
ようやく被災地から無事全員を連れて帰ることができた
多くの方に助けて頂き、今は荒川区で落ち着いた避難生活を送っている
こうして冷静になって振り返ると、当時の混乱ぶりがよく分かる
さて、日本にとって、ほんとうに重い1年だった
大震災と原発事故と放射能、低迷する景気、そして機能不全に陥った政府
しかし、何度でも言いたい
67年前の終戦の焼け野原から立ち上がったように
2度の経済危機を乗り越えてたくましくなったように
日本人の力で、必ずこの困難を乗り越えることができると信じる
復興元年、希望の年となることを祈ろう!